26.男と女がすれ違う街・ベローナ
本当は、フィレンツェから直接ベネツィア入りしたかった。でも、諸所の事情が私たちにそれを許さなかった。
宿の予約をせずに痛い目に遭った、フィレンツェの二の舞は、ごめんだった。ベネツィアでは確実に宿を確保しておきたかった。だが、空き状況をインターネットで調べてみると、ユースは8月最終日まですでに満室。他の普通のホテルもほぼ満室か、空きがあっても月末、しかも料金が信じられないくらい高騰している。噂では、ちょうどこの時期ヴェネチア国際映画祭が開催されるため、その余波がこんなところに及んでいるらしい。
そもそも、スケジュール上の都合もあった。「夏のうちにロッキー山脈を見たい!」毅の強い希望から、ヨーロッパ周遊を一時中断して一気に北米大陸へ飛ぶ計画を立てていた。すでに飛行機のチケットは取ってある。9月3日ベネツィア発→9月4日フランクフルト発→同日NY着。つまり、9月3日までベネツィアにいなければならない。逆に考えれば、3日までにベネツィアに入っておけばいいということだ。
宙ぶらりんになった数日を、どこで費やすか?急きょ有力候補に浮上したのが、ベローナという街だった。
イタリア北部、ミラノとベネツィアのちょうど中間点に位置するので、交通の便は良い。規模は小さいが美しい街で、ローマに次いでローマ時代の遺跡が数多く残されているらしい。その一つ、完全に近い形で残っているコロッセオ(円形劇場)を利用して、毎年夏には野外コンサートが催されているという。そしてこの街の最大の名物は、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の舞台となったということだ。
ベローナに行ってきたという人から話を聞けば聞くほど、今まで名も知らなかった街なのに、興味が湧いてくる。こういうところは実にピッタリ意見が一致する毅と裕子、阿吽(あ・うん)の呼吸でベローナ行きを決定したのであった。
鉄道を乗り継いで、ベローナに到着。駅からバスに乗って旧市街へと向かう。早速、ローマ時代の市の城壁らしき砦が、堂々たるお出迎え。そして、いきなりコロッセオが姿を現す。街の中に、さも当たり前のようにこんな巨大な遺跡が残されていることに――しかも今なお現役で活躍中――ただただ驚く。…この街は良いかも!当たりくじでも引いた気分である。
ここのユースホステルも、街を見下ろす高台の上に建つ、瀟洒な貴族の邸宅風(実際にそうだったのかもしれない)で、雰囲気抜群。イタリアのユースは、朝食こそパンにカフェオレだけで、ドイツやオランダに比べるとお粗末極まりない内容だが、夕食にイタリア料理がコースで(しかもグラスワイン付き)安く食べられるのが魅力だ。
8月も終わりに近づき、今までうじゃうじゃ見かけた日本人旅行者もめっきり少なくなってきた。山田母と弟に会ったドイツ以降、めっきり日本への里心が付いた私たち。日本人と見ると話しかけているが、ここでも何人かとお知り合いになった。それで気付いたが、海外に長くいる日本人の大半は、日本大好き人間だ。離れてみて初めて分かる祖国の素晴らしさよ、ということか。
昼間の観光では、例の『ロミオとジュリエット』関係を訪ねて周った。この話は、ヴェローナで実際にあった事件を下敷きにしている。当時のイタリアの置かれていた政治的状況を反映していて興味深い。驚きなのは、ロミオとジュリエットは事件当時まだ10代前半という若さだったこと。う〜ん、さすが恋愛至上主義の国・イタリア、昔から早熟だ。
街には「ジュリエットの家」があって、内部を見学できる。ロミオとジュリエットが愛をささやきあった“らしい”バルコニーでは、現代のジュリエットたちが階下の恋人にむかってそれぞれポーズをとり、ロミオたちは必死にカメラのシャッターを切っていた。
中庭にはジュリエットの像があり、何でも「ジュリエットの右胸を触ると恋が成就する」というジンクスがあるらしく――悲劇のヒロインなのだから悲恋になりそうなものだが――、皆ちょっと照れながらでも結構真剣に、代わる代わる触っていた。おかげで彼女の右胸は磨き上げられてピカピカである。たまに100%冗談?の男の子たちが、やたらめったら触ってはギャーギャー騒ぎあっていた。これもまたほほえましい。
めちゃ込みのジュリエットの家を後にし、ベローナの旧市街をそのまま散策する。ローマ時代の遺跡と、中世の館と、現代のビル。全部が溶け合って不思議と違和感がない。
通りを一本入った裏路地で、何か人だかりができていた。どれどれ、と覗き込むと、マッチ箱くらいの箱が3つ、ビー球大の玉が1つ。どの箱に玉が入っているか、一種の賭け事らしい。はずれると掛け金は没収だが、当たると倍もらえるルール。もちろん、全くの違法行為である。
こういう人ごみはスリの危険があるから、とバッグを抱きしめ離れたところで眺めている裕子とは反対に、毅は興味津々だ。しばらく観察してみる。賭け師を囲む連中の誰が観客で誰がサクラか、ちょっと見では区別が付かない。でも、儲けている人はかなり儲けている。毅は、3回に2回は自分の予想が当たっている気がしていた。
突然、賭け師が道具をたたみ、人ごみが散った。警察の見回りが来たと思ったのだろう。後ろ髪を引かれつつ歩き出した毅だったが、少し離れたところにも別の賭けの輪があった。ついついこちらにも首を突っ込んだ。知らないうちに深みにはまってしまったらしかったが、本人は気付いていなかった。
突然、毅が動いた。スタスタ!と輪の中に入ったかと思うと、タン!と1つの箱を踏んづけた。賭けに出たのだ。裕子は、夫のあまりに予想外の行動に、声も出ない。毅が、裕子が、野次馬が見守る中、果たして箱の中に玉は――無かった。毅は賭けに負けた。掛け金50ユーロ(約6,500円)が、去っていった…。
それからの2人の様子こそ、まさに「修羅場」と呼ぶに相応しい。イタリアの片田舎ヴェローナの路上で、毅・裕子夫婦の歴史に残る大ゲンカを繰り広げたのである。その模様を今ここで改めて実況するのは止めておこう。
とにかく、今後2人の間で語り草になるであろうこの“ベローナ賭け事事件”は、「今後一切賭け事はしないこと!!」という強い誓いの末に、幕を閉じたのであった…。たかが50ユーロと笑うなかれ。だって宿代4泊分なんだもん!
そんなこんなで、ベローナ最後の夜。私たちは、知り合った日本人の方から薦められ、ローマの円形劇場で野外オペラを鑑賞した。題目は「カルメン」。共にオペラ初体験の2人でも、これなら知っていたからである。
ローマ時代そのままの円形劇場で観るオペラは、さすがに雰囲気も最高。歌唱も舞台セットもなかなかの迫力だった。夜9時から始まった上演は4時間にも及び、劇の合間にちょっぴり…いえ、かなりの部分を睡眠鑑賞?!してしまったけれど、それでも肝心の場面はしっかり観ることができた。スペインで闘牛を見てみたくなった(単純?)。
その後、舞台が引けて、宵闇にしんと静まった街を宿へと急ぎながら、裕子は心の中で問いかけていた。
――ロミオとジュリエットしかり、カルメンとドン・ホセしかり。いつの世も男と女は、相手を想うがゆえにすれ違い、想いながらも分かり合えない。それでも一緒にいたいと願うのは、この人といつまでもいたいと願うのは、どうしてなのだろう?――
誰も教えてはくれない。自分の胸に、相手の目に、答えを探して生きていくのかもしれない。隣を歩く毅の手をぎゅっと握ると、力強く握り返してきた。

嗚呼、毅どうしてあなたは毅なの?煩悶するジュリエット裕子。