21.ハイジもつらいよ

 

 フライブルクでの数日間は、旅の合い間の“休日”であった。一足先に空港へと出発した山田母と弟に遅れること数時間、私たちは南へと向かう列車に乗り込んだ。

これからまた夫婦2人、根無し草のような日々が始まるのである。いろんな国を渡り歩いて、いろんな人と出会って別れて、でもいつも隣にはこの相手がいた。そしてこれからもずっと…。などとちょっぴりおセンチな気分に浸っていたら、いつの間にかスヤスヤと電車の中で船を漕いでいた。

それにしても、フライブルクではあんまり動かなかった割に、食べる量が減らなかったどころか逆に増えていた。心なしか2人とも顔がふっくらと…き・気のせいだよ、きっと()

 

 

 目覚めたら、もうそこはスイス。バーゼルを過ぎ、ベルンで乗り換え、トゥーン湖の水面を左手に眺めつつインターラーケンまで。そこからは登山鉄道だ。

線路は、氷河の雪解け水で青灰色に濁った川の横を走っている。その上流へとさかのぼるように谷間を登っていくと、突然視界が開ける。車両のあちこちで、歓声ともため息ともつかない声が上がる。眼下に広がる緑の牧草地には、赤や黄色の花が窓辺を彩る木の家が散らばっている。そして、頭上から覆いかぶさるように目の前にそびえているのは、氷河を従えたアイガーの北壁。私たちは、絵よりも絵のような風景に酔いしれていた。ついにグリンデルバルトにやって来たのだ。

 スイス中部の小さな小さな村グリンデルバルトが世界中から観光客を集めるのには、大きな理由がある。世界に名だたるスイスアルプスの、中でも12を争う人気を誇る“若い娘さん”「ユングフラウ」への登山口なのだ。また、殺人壁の悪名も持つほど北壁が登攀(とうはん)の難しいことでも知られる「アイガー」は、世界中のクライマーたちの憧れだ。その雄々しい男山と麗わしの乙女山の間には、“僧侶”「メンヒ」が2人の邪魔をするかのように色気なくでんと立ちふさがっている。つくづくスイス人は上手い名前を付けたものだ。

 

 グリンデルバルトのユースホステルは、アイガーと谷を挟んで反対斜面にある。ここへ行く道が、大げさでなく、分度器をあててみたくなるような急斜面なのだ。上を見上げたら最後、ひっくり返ってそのまま元の地点にまで転げ落ちていきそうだ。昔ドリフの「8時だよ全員集合」でつるつるの坂道を駆け登るコーナーがあって、裕子はそのくだらなさが大いに気に入っていたが、いざ自分の番となるとちっとも笑えない。

しばらく登っていくと、ただでさえ頼りなげに続いていた坂道は、舗装もないただの山道になってしまった。それがちっともユースにたどり着く気配もない。途中それっぽい建物が幾つかあって、これか!と近づくと別のペンションだったり、今度こそ!と入りかけると民家だったり。ああ、宿は遥か遠い…。

駅を降り立ったときは上機嫌だったはずが、あまりの道の険しさに「…」2人ともすっかり無口。だが、ついに登りきってから今来た方向を振り返ったとたん、「うお〜」「すっごーい」頑張ったご褒美は、雪を頂いたアルプスの山々の絶景だった。

アイガーを真正面から見る絶好のシャッターポイントに「これこそ俺の思い描いていた“ジ・アルプス”だ!」と感激しきりの毅。早くもカメラを構えては、同じような写真を10枚も20枚も撮っている。よっぽど山が好きらしい。一方裕子にとって、この景色はまさしく『アルプスの少女ハイジ』。遠くの方からかすかにカウベルの音も聞こえてくる。「あれはおじいさんの山小屋に決定!ハイジはどこ?ペーターは?そうそう、やっぱブランコでしょ!」と自分の世界に入っている。実に分かりやすい夫婦である。

 

 

無事チェックイン後、とりあえずお腹が減ったので、買い物がてら街を散策に行くことにする。あれほど苦労した道を下るときのこの快感!とはいえ傾斜がきつすぎて、膝への負担は登り以上かもしれない。

話は飛ぶが、以前テレビで富士山マラソンとかいうのを観た。ある種異様な競技であった。選手たちは、砂煙をあげながらものすごい勢いでひたすらまっしぐらに急斜面を駆け下りていた。彼らのようにハイジも、あれだけ毎日山を駆け回っていたのだから、足腰はがっちりしていたのだろうか。う〜む…。

駅のすぐ目の前には、(こんな小さな村なのに)日本人専用の観光案内所があった。周りを見回せば、なるほど日本人観光客でいっぱい。きっと『地球の歩き方』で「スイスへ行くならココははずせない!」とか「この村からの眺めは必見!」とかいう文を読んで来たのだろう。ま、かく言う私たちも思いっきりあの本に踊らされているのだが。

肝心のスーパーは、すでに閉店後だった。5時半閉店なんて早すぎ!と文句を言っても時計は巻き戻らないので、仕方なくメイン通りをぶらつくことにする。

 

道の両側にはレストランがテーブルを並べていて、恐ろしいことに、席についている客は皆チーズフォンデュを食べている。ミーハー街道まっしぐらの私たち2人も、さっそくチーズフォンデュと、火にあぶってとろけたチーズを茹でジャガイモにかけて食べる“ラクレット”という、これまたいかにもスイス的な料理を注文した。

チーズフォンデュについては、詳しくは「毅の食い倒れ!」参照のこと。

裕子の個人的な感想としては、確かに美味しかった。が、胃の弱い裕子にはちょっとヘビー。それに、チーズと白ワインとパンまたはジャガイモだけなんて、栄養が偏るし第一超高カロリーじゃん!本当にスイス人はこんなの毎日食べているの?

――その後たまたま知り合ったスイス人にこの素朴な疑問をぶつけてみたら、本当に大好きで皆よく食べているらしい。「夏にはちょっと…だけど、冬寒かったり、外国にいたりするときは『あ〜フォンデュ食いてー!』ってなるよ」とのこと。日本人にとってさしずめ“ラーメン”のような位置付けなのだろうか。

 

折り良くその日は週1回の村のフェスティバル(といっても観光客目当てだが)だったらしい。午後8時を境にメイン通りは歩行者天国になり、あちこちで出し物が催されている。アルペンホルンの合奏あり、大道芸あり、観客参加のゴーカート競争あり、ビルの壁を利用してロッククライミングあり、と大賑わいだ。

中でも私たちの興味を引いたのが、チーズの即売。地元の酪農家のおかみさんが、「見てよこれ、うちの可愛い牛たちから作ったチーズよ!」と誇らしげだ。チーズ大好き毅と話が盛り上がるうちに、明日このチーズを作っている人の山小屋を見学に行くツアーがあるから参加しないか、と誘われた。だが、朝7時出発のうえ、飛び入り参加させてもらえるかその場で自分たちで交渉しなくてはいけないらしい。太陽と共に寝起きする、ハイジやおじいさんの暮らしを追体験してみたくはあったが、いかんせん毅も裕子も低血圧で朝に弱い。涙を飲んで諦めたのだった。トホホ…。

 

 

ところで、ここまでの言動ですでにはっきりと現れているように、毅がスイスに求めているものが、苗字が山田だけあって(笑)「山!山!」であるのに対し、一方の裕子は「ハイジ!ハイジ!」という具合。それぐらい、とにかく裕子は小さい頃からあのアニメ『アルプスの少女ハイジ』が大好きだったらしい――伝聞調なのは、母親から聞いた話なので。

日本アニメ界の巨匠・宮崎駿と高畑勲コンビが手がけた作品だけあって、細部にまでリアリティがこめられた素晴らしい出来栄えだと評価が高い。スイスアルプスの風景がそっくりアニメの背景として描かれているし、オープニングで流れるヨーデルは本物の歌声を録音して取り入れたらしい――ハイジがこいでいるブランコを再現すると長さ50m・時速80km以上だ、などと“超”科学的計算をする輩もいたが。

それにしても、あの物語は子供向けだとずっと思ってきたけれど、実は大人にも十分読ませる内容だった。今思い返してみると、いろんな意味であれこれ合点がいく。

例えば食べ物。ハイジは大抵いつも、山羊の乳を飲んだりあるいはチーズにして黒パンにはさんで食べたりしていた。一度でいいから食べてみたかったなー。でも、実際に山羊のミルクや山羊チーズを口にしたときの衝撃!「う…ケモノ臭い…。」

例えばハイジがいつも寝ていた干し草のベッド。一度でいいからあそこで寝てみたかったなー。でも、実際寝たら、肌の弱い裕子にはチクチクして安眠なんて絶対無理かも…。最近の体験ツアーの中には、山小屋で干し草のベッドで寝てみる、というコースもあるらしい。参加した方、ぜひその感想を教えてください。

例えば人物描写。早くに両親を亡くし、おじいさんと一緒に村から離れた山奥に住んでいたハイジは、背が低く髪も黒い。一方、大都会フランクフルトのお金持ちの娘クララは、病気がちという点と年齢差を考慮に入れても、金髪ですらりとしていた。ヤギ飼いのペーターの服はツンツルテンですりきれていた。

子供向けアニメとして子供の頃見ていたから気にもしなかったが、確かにそうだった。民族、文化、生活習慣、経済状態。アニメは本当に原作に忠実に作られていたようである。

街で暮らすことに馴染めず、ホームシックのあまり夢遊病になってしまったハイジは、ふるさとの山小屋に帰ってゆく。便利で贅沢な都会よりも、何もなくとも全てがある自然の中での生活が合っていたのだ。クララやおじいさんや周りの人たちの心と体を癒したハイジの天真爛漫な笑顔は、アルプスの大自然そのものだったとも言える。そう、平たく言えば“大自然の癒し”が、物語の作者のテーマだったのだ。

 

 

グリンデルバルトの街からユースホステルまで帰る。本日2度目の山道は、さっき以上に太ももに応えて、ゼーハー息を切らしながら登る現代的東京人の2人であった。「老後に住むんだったら、もう少し楽に家に帰れるところがいいな…」憧れのハイジの生活もそうそう楽じゃない、てなところか。

 

 

 

アイガー麓に広がるグリンデルバルトの村。景色の素晴らしさったら言うことなし!